『しんでくれた』という絵本が気味悪い

ITmedia の eBook USER に「「いただきます」が死語になる?」という記事が掲載されていました。

この中で谷川俊太郎の『しんでくれた』という絵本が紹介されています(上の画像に引用しているのが『しんでくれた』の表紙です)。記事では “私たちが「いただきます」と言う理由を、改めて考えさせてくれる絵本です” と書かれています。要は、ハンバーグを食べて「いただきます」というのは、「牛の命をいただきます」ということなのだそうです。

確かにそういう話を聞いたことはありますし、元々本当にそういう意味で使っていた人もいたかもしれません。

命をいただきます、と言っていた歴史はない

いっぽうで Wikipedia には、明治・大正生まれの人たちの間では食前の「いただきます」は今ほど一般的ではなかったと書かれています。一般化したのは昭和初期の帝国主義的学校教育の時代で、そのときは食材というよりも天皇陛下や父母に感謝するという意味だったようです。つまり、ほとんどの人は「動物の命が〜」という意識なしに「いただきます」と言ってきたわけです。

ところが最近になって、「実は『いただきます』は命をいただくという意味なんだよ」というウソ雑学が広まりはじめて、ただ純粋にお母さんに感謝をしていた子どもたちに「動物の命が〜」という思想を押し付ける世の中になってしまいました。

言い換えれば、「お母さんありがとう。いただきます!」と元気に言った子どもに、「ちょっと待って。あなた今お母さんありがとうと言ったけれど、あなたが食べようとしている牛さんに対する感謝の言葉はないの?」と言っているようなものです。ちょっと気味悪い感じがします。

Amazon の『しんでくれた』のページには、以下のような出版社からのコメントがあります。

食品となった牛や豚やにわとりは、ただ「しんだ」のではなく、「しんでくれた」──。
そうとらえることから、食べ物への感謝が湧き、「いただきます」の言葉につながるのではないでしょうか。

どうでしょうか。気味悪くないですか? そう感じるのは私だけでしょうか? 「しんでくれた」と言ってますが、牛があなたの食料になるために自ら死んでくれたわけではないですよ。一方的に殺したんですよ。(こういうことはあまり書きたくないのですが、例えばテロリストが人質を殺害しておきながら「我々の大義のために死んでくれた」と言ったらおかしいと思いますよね)



言葉が人の意思を定義してはいけない

また、同じ話題で All About の「そうだったのか!「いただきます」本当の意味」という記事には以下のような記述があります。

先生のお宅では、お孫さんが「にんじんの命を私の命にさせていただきます」と言ってはパクッ、「卵の命を私の命にさせていただきます」と言ってはパクッ、と食べているそうです。

・・・ぞっとします。

これを宗教的な倫理観で論ずると非常に難しい議論になりますし、私自身もまったくそういった信心がないわけでもありません。生き物の命は大切にしなければいけないし、食材に感謝してもいいと思っています。

ですが、ここで私が言いたいのは、そういったデリケートな問題を日常のあいさつに持ち込んで、意味を塗りかえないでもらいたいということです。

そして、その言葉のこじつけで変な思想を押しつけないでもらいたい。

言葉が人の意志を定義してはいけません。

ITmedia の記事では、「食べ物に対する感謝の気持ち」を感じないという人が増えているので、「いただきます」が死語になるかもしれないと結論づけていますが、そんな宗教的な意味を付加するくらいなら死語になってしまえばいい、というのが私の意見です。

スポンサーリンク

シェアする

スポンサーリンク