「すべからく」の誤用を指摘するときの注意点

文章の書き方

日本語の誤用として多く取り上げられるものに「すべからく」という言葉があります。

有名なのが講談社のマンガ『はじめの一歩』に出てくる、「努力した者が全て報われるとは限らん。しかし! 成功した者は皆すべからく努力しておる!!」というセリフでしょう。

宝くじを買った人がすべて当選するとは限らない。しかし、当選した人はみんな宝くじを買っていた ── シチュエーションとしてはこれと同じで「すべからく」という言葉を「すべて」という意味で使っています。

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「すべからく」は「すべて」という意味ではない

ところが、「すべからく」という言葉は「〜すべし」という意味で「すべて」という意味ではありません。『大辞林』には以下のようにあります。

すべ からく【須く】
(副)
〔漢文訓読に由来する語。「すべくあらく(すべきであることの意)」の約。下に「べし」が来ることが多い〕
ぜひともしなければならないという意を表す。当然。「学生は──勉強すべし」
〔近年「参加ランナーはすべからく完走した」などと、「すべて」の意で用いる場合があるが、誤り〕

(『大辞林』三省堂)

「学生はすべからく勉強すべし」。
漢文の授業から遠ざかっている人にはむしろこちらの方が違和感ある使い方かもしれませんが、「学生は当然やるべきこととして、勉強をするべきだ」といったニュアンスでしょう。

下に「べし」が来ることが多い・・・けど、来ないこともある

さて、『大辞林』には「すべからく」という言葉は下に「べし」を伴うことが多いとあります。これは漢文の「再読文字」の読み下し方に由来するもので、「将(まさ)に・・・んとす」「未(いま)だ・・・ず」と同じように、「すべからく」も「須(すべから)く・・・すべし」と訳しましょう、というルールがあるからです。

ただ、下に「べし」が来ないからといって、それをもって「あなたの『すべからく』の使い方は間違っている!」と指摘するのはちょっと危険かもしれません。

例えば、「学生はすべからく勉強していた」という使い方はどうでしょうか?

これを「学生はみんな勉強していた」という意味で使っていたら間違いですが、「学生は当然やるべきこととして、勉強をしていた」という意味で使っていたとしたらオッケーな感じもします。

「いや、下に『べし』が来ていないから、やっぱり間違いだよ」と言われるかもしれませんが、その主張はあまりにも形式にこだわりすぎています。

司馬遼太郎さんが空海の言葉を書いた本に以下のような一節があります。

ただ字画の正しいことのみをもってよしとしてはいけない。すべからく心を境物(外界のもの)に集中させよ。思いを万物にこめよ。さらには書勢を四季の景物に象り(かたどり)、形を万物にとることが肝要である。

(司馬遼太郎『空海の風景』中央公論社)

これは正しい使い方でしょうか? 誤用でしょうか?

「すべし」「すべて」どっちの意味にもとれるケースが多い

文化庁が発表している「言葉のQ&A」という連載に「すべからく」という言葉の誤用問題について以下のような記述があります。

「すべからく」の本来の用法には、意味の上で、「全て、皆」につながりやすいところがあると言えそうです。(「言葉のQ&A」文化庁)

例えば、「学生はすべからく勉強すべし」という文は、「学生は当然、勉強をするべきだ」という意味ですが、「それって結局、全員勉強しろってことでしょ!」とも言えるわけです。

正しい用法で「すべからく」を使っていても、そこに「すべて」というニュアンスが同時に含まれてしまうことが多く、実際にネットやツイッターでは「それ誤用だよ」「いや、誤用じゃない」という論争があちらこちらで繰り広げられています。

これを拡大解釈していくと、冒頭の『はじめの一歩』の鴨川会長も、「いやあれは、『成功した者は皆、当然のこととして努力しておる』と言いたかったのじゃ、フンッ」と反論するかもしれません(そうなると前半部分の「全て」との対比が崩れるのでレトリックとしては面白くなくなりますが)。

結論。
けっこう面倒な問題なので、他人の「すべからく」の誤用は指摘しない方がいい。

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